「無形の責任」と「有形の責任」

昨日、twitter で話していた話題なのだが、
どうしても自分の考えをまとめたかったのと、結論が書ききれなかったので、
改めてこちらに書いてみる。


話の発端は医療に関する責任についてなのだが、
正直私は専門化ではないので個々の責任については言及を避ける。
ここではそんなことよりももっと一般的な責任について述べたい。

「無形の責任」を「有形の責任」に変換する

みなさんは「責任を取る」という言葉にどういうイメージを持つだろうか。
「責任を取って辞任する」とか「俺が責任を取るから思うようにやれ」という
言葉が浮かぶかもしれないが、私はそれはちょっと違うのではないかと考えている。


このブログのタイトルにあるように、私は、責任を「無形の責任」と「有形の責任」の
2つに分けて考えている。

  • 無形の責任
    • 立場上取らざるを得ない責任
    • 自分がコントロールできない場所にある責任
  • 有形の責任
    • 自分がコントロールできる範囲内でのこれから行うことの約束
    • 想定通りにならないリスクの説明


これら2つの責任はどちらも存在するものだと思う。
しかし、「無形の責任」をそのままの形で責任を取るのは非常によくない。
無形の責任は、責任そのものを重くさせ、解決する手段を隠し、所在を不明瞭なものにする。
対して、有形の責任は、責任を身近なものにして、解決方法を明確にし、どこにあるのかすぐ
分かるようにする。


なので、私は責任を取るということは、「無形の責任」を「有形の責任」に変換する努力をすることだと考える。
「責任を取る」ということは、いざという時に首を差し出すのではなく、
そうならないように、必死こいて這いずり回ることなのだ。

上流に行っても状況は変わらない

「お前のような下っ端には責任の重さなんて分からないんだよ」と思う方もいらっしゃるだろう。
しかし私は、この状況はどんなに上に行っても変わらないのではないかと思う。
確かに、上に行けば行くほど、「無形の責任」を「有形の責任」にするのは難しくなる。
ただ、それは難しくなるだけなのだ。決して「有形の責任にできなくなるレベル」が存在するわけではない。


もしかすると、すでに「無形の責任」が「有形の責任」にできないレベルのところまで来ている
方もいらっしゃるかもしれない。しかしそれは、「有形の責任」にできないということではない。
責任があなたの能力を追い越したのだ。

ヒエラルキーが崩壊したのならボトムアップで社会を作れ

しかし、残念ながら責任というのはどんどん複雑化するものだ。
人間は何か分かれば、それが不都合にならないように保障を求める。
例えその能力がなかったとしても。
たぶん「賢くなればなるほど不幸になる」というの状態はこのレベルにいる人達の状態だと思う。
最近の日本の低迷感はそういったものから来るのかもしれない。


ではどうやって解決するか。そういう時は若い人達を見習えばいい。
一旦構築して行き詰まってしまったものは、壊してしまって再構築すればいいのだ。
現に、最近の若い人達の行動原理は、この「再構築」という言葉に相応しいものになっていると思う。
年上の人間から見れば理解不能だが、彼らは彼らなりに価値を見出し、
彼らなりの市場を形成していく。


かつては、このような手段として「戦争」や「革命」が使われたのだと思う。
「戦争」なんてものはそもそもその答えさえ分からない状態の時に起こったものかもしれない。
しかしそれが、「戦争」や「革命」という手段を使わずに
社会を再構築すること(これ自体を革命と呼ばないのであれば)で解決できるのであれば、
人間は十分かしこくなったと言えるのではないだろうか。



P.S.
この話題について、twitter でお話してくれた方が、医療の立場からブログを書かれている。
そもそものテーマが違う場所にあるので、主題や内容は全く関係ないかもしれないが、
非常に興味深いのでそちらも閲覧していただいけると、私も嬉しく思う。

http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/691